昭和43年6月21日   朝の御理解
 

 御神訓、道教えの大綱というのがありますね。
 「神は中夜も遠きも近きもとわざるものぞ。頼む心にへだてなく祈れ」と。
 一つ、「清きところも汚きところもへだてなく天地の神はお守りあるぞ。わが心に不成をおかすな」と。



 二つのこの御神訓、並べてございます中に、両方にこの「へだてなき」という言葉が使ってございますね。「頼む心にへだてなく祈れ」と、前の訓にはございます。次には、「清きところも汚きところもへだてなく天地の神がお守りあるぞ」と。「わが心に不成をおかすな」とありましょ。
 始めの、えぇ、神様は、昼も夜もなく守り通しに守っておって下さる。同時に時間も空間もないというわけでございますね。近き遠いということは問わない。ですから、こちらのこの頼む心とういのは、ここでは信頼心と書いてございますね。信頼心、「あなたを信頼しております」というのである、ね。「あなたを信用しております」というのである。ね。それはどういうことかというと、「あなたを頼りにしております」ということ、ね。信頼心。
「これはどうぞお願いします、お願いします」というあの頼むという意味じゃない、ね。信頼心。大阪弁で言うなら、「頼りにしてまっせ」ということです。その信頼心に、へだてなくところ、言われる。
 中々、難しいですね。どれだけ頼りにしておるか、神様を頼りにしてるというけれども、どれだけ頼りにしておるか。御理解に、「木や竹やおれる。神に杖をつけば曲がる。木や竹はおれる。神を杖つけば楽じゃ」と仰る、この楽というのは信頼心の程度であると。 金で、金の程度にしか頼ってない人もあるんですよね。木や竹の程度にしか頼ってない人もあるんですよね。ですから、ちょいとその杖代わりになります、無いよりまし。ね。その証拠には、少しゆとりができる、お金がある、少しできてくるともう金に頼っておるから、信心が疎かになるでしょうが。ね。頼りにならんことはないですよね、おかげ頂いて金がそこにゆとりがあるのですから。段々その金が少なくなってくると、これはじっとしちゃおられんというので、後座に、まぁ、熱心に神様を拝むようになったり、修行を始めたりするわけです。けれどもこれは、いわゆる、へだてのあるのある心ですよね。
 自分の都合の良い時には、頼らない。「頼みます」ということを言うて、頼りにしてない。けども、自分の方が都合悪くなってくると、「頼んどきますよ」と。「何とも頼りにしておりますから」と。こういうへだての心があってはいけんというのである。ね。
 これは、いわゆる、「金を杖をつけば」とこう仰る、金を杖つけばそれは曲がることが分かっておるけれども、やはり金を頼りにする。ね。中々だから金のある人は信心になりにくいもんですね。もちろん、木や竹は折れる、というてそれをぷりぷりおっしゃげてしまうというのじゃない。ね。やはり、あの突かんよりか良か。ね。例えば、非常にこの性根がしゃんとしておる人がいる、自分の、何と言いましょうかね、気丈に強いとか、ね。その人中々、例えば、もうこう怪我なんかいたしますよね、もうその自分の怪我を見ただけで、気を失うような人がある。けれども、気の強い人はですね、その、言うなら平気な顔、風をしておる人がある。そこにあの気の強い人やら気の弱い人やらありますよね。ですから、気が弱いより気が強い方がです、やはり、どんな場合でも、まぁ言うならば、おかげが頂きやすいんだけれども、さぁその自分の気が強いというようなことが、ならどんなようなことにでもということになるのじゃない、ね。自分も大抵、できておると思ったけれども、ね、やはり自信を無くしてしまうという何かあるとね、いよいよ大きなのに直面すると、もう自信を無くしたとこう言う。これはもう木がおれた証拠。ね。
 だから、木一本とか木一つではいけんことはないけれども、いよいよの時には折れるんだとこういう。ね。そこでやはり、それを、あれも捨てこれも捨てて、神を杖に突かしてもらえる信心。そこにこのね、へだれなく、どのような、どんな些細な事でも、ですから、ここであの考えられますことはね、もうちょっとした事、ね、大した事、そのちょっとした事の方が、真剣に神様にお縋りが、お縋りするといったようなやはり稽古が必要ですね。ちょっとだけにはポンポンと神様、柏手打っといてから、ちょいと拝んでいく。今日は何か特別な、そげな時にはもう神様しっかり念じて拝んでいくと。ね。大体言うたらもう何か、「今日は」つな時には心の中に神様をいつも外しませんからね、実を言うたらもう拝まんでも良かぐらい。けれども、何でもないような時ほど、やはり、おかげを頂かなきゃいけませんですね。
 「清きところも汚きところも天地の神はお守りあるぞ」と。「わが心に不成おかすな」と。清きところも汚きところもへだてなく天地の神様は守っておって下さる。わが心に不成をおかすなとこういう。神様がこれはあの「場」ですよね、「清きところも汚きところも」とこう仰る。ね。まぁ、言うなら、お広前におろうが、自分の家庭におろうが、ね、たね中に、畑の中におろうが、(?)の職場にあろうが、ね、神様のお守りを下さっておるということにへだてなく、お守りを下さってあるという。そこで、自分の心に不成をおかすなということ。ね。自分の心を汚すなというのである。
 お便所にでも入らせて頂く時に私はあの、まだ椛目時代にお広前の裏がお便所でしたがね。あそこへ小さい廊下がこう(?)。廊下を行く道々、こう行き当たりにあるそのお便所のお扉をこう拝んで入るわけです。あの扉においさみつきよったですね。そこに神様がおいさみを下さるという、そこに神様がござるんだから、もう御神前も同じですよね。信心させて頂く者はこのへんのところをです頂かんと、陰と日向の心が出たりいたします。 神様がへだてなくお守り下さってあるのですから、私共もへだてなく祈れれる、または、信頼心の上にも、頼む心の上にも、ね、同じ思いで祈らせて頂けねばならない、同じ見方をしなければならない。ところが私共はそこんところが中々難しい。そこで、まあちょっとした、かえってそういう時ほど、祈っていかなければならない、願って、これは私共がそこに人間の様相というかね、が出てくるから、、、なら例えて申しますと、私はいっぺんこういう体験ある。
 月次祭にその、その関(せき)さんが用事で送って下さるんですよね。その日も、もうそれこそ私が、まぁ、慢心でしょかね、その裏からツーと、そのお広前に出てこずに、お広前からずっともう迎えに来てあるというので、用意が出来たから行ったんです、乗ったんですよね、自動車に。それでその自動車が、その曲り角ん所を出ろうとした時に、向こうの方、あの、久留米の方から走ってきたトラックが、ガァーンというほどにぶつけたんです。もう私はその時に思ったですね、本当に頼む心にへだてなく祈れとある、私達の場合はなんかは、拝んだから拝まなかったからといった訳じゃないけれども、やはりですね、その信心っ、本当はそういう大きな悟りを開いておるようだけれども、実はねそうじゃないのですから、「ただ今から、ただ今から善導寺の親教会にお参りをさせて頂きます」と、お届けをして、そして、神様のお許しを頂いて、祈って行っとたら、あげな事なかった、その時私思ったんです。もう願いは私はほんとくれぐれも、やはり、ここへ出てきてから、お届をしてしか行かんことに決めました。
 ちょいそこまで行くとじゃけんで、もう拝まんで良かちいうことはないです。ね。どこ行くでもだから、急ぎよる時でも走ってやって出てきておいてから、やっぱりあの拝んでいく。それを実を言うたら、拝まんですむおかげを頂かなければなりませんけれどもです、ね、何故って神様は、いわゆる、便所の扉にでも、宿ってござるのですからね。
 あ、道にでも「ただ今から善導寺にお参りをさせて頂きよります」ということは同じことだけれども、そこが人間、そこが生身。家から拝んでも間違いないようだけれども、やはり、ここまで参って来ることによってです、おかげが受けられることがいつも事実ですね。これは私共の信心が、本当にできてないからです。ね。そこんところが出来るようになったら大したこと。参っとらんでも参らんでも、ね、それは参って参らんのでも、同じであるということはそれこそが実を言うたらへだてなくです、ね。へだてない心をです。けれども、私共がそこまでも頂けておるとは思われないのです。へだてがあるです。ですから、ちょっとした事ぐらいならなおさらなこと、私は祈りが必要である、お広前へ引き寄せ頂かにゃいけんのであり、お取次ぎを願わなければいけないとこう思う。どこから狂うてくるか分らんのです。「お取次ぎを頂いてね、起きてきたこと良いこと悪いことね、関わらず、ね、みな良い」とこう言われる。お取次ぎを頂かずして出来た事が、どんなに素晴らしい良い事のようにそれはでき、出来てきよっても、結果においてはみな悪いというようなことになってくるんですよね。
 本当言うたら、お取次ぎを頂こうが頂くまいが、もういつもが四六時中がお取次ぎを頂いてある、ここんにきを間違いますとですね、もういつも自分の心の中に神様がござるといつも、いわば、お取次ぎを頂き続けてある、こう頂ければもう間違いないです。頼む心にへだてがない、実を言うたらそれが理想なんだ。けれどもそこまでは中々いけんのです。でそこで、今日私がその、そういう心とは、私共はそこに間違いとる場合が沢山ありますもん。いつもわれ神と共にあるというふうに思う、自負しておる。いわば、(?)思い上がるの信者、思い上がっておるのです。
 ただ、金光様の祈りがあっておるからだ、おかげを頂いておるだけのこと。ね。神様が多めに見ておって下さるからおかげを受けておるだけのこと。それを自分の心の中にいつも絶えず神様が願ってござる、いつもお取次ぎ頂き通しであるから、おかげを受けておるように、にそれを思い違いをしておるところにです、間違いがあるですね。そこでそのへだてなく祈ると、へだてなくということはね、どういうことかと。
これは一存にして言うとですね、自分の心がいつも白紙であるということです。全然色がついていないち自分の心に。ね。そういう心の状態になれた時にです、私共は本当の意味でへだてなく祈ることが出来るのであり、清いところも汚きところもへだてなくお守り下さる神様の、そのへだてのないおかげをへだてない心でいつでもどこででもキャッチすることが出来るのです。なら白紙の心とはどういう心か。ね。
自分の心の中に、さぁ、例えば火急の場合とか、胸がドキドキドキドキするような場合があるでしょう色んな時に。ね。「もう今日は胸がドキドキした」ちいう時があるでしょう。そういう時にいくら「金光様、金光様、金光様」とお願いしてもです、心が落ち着かない時があるでしょう。ね。それ、その一時から言うてもですね、私共はいかに、あのへだてのない心持っておるかと、持っておると言うても、へだてのある心であるかということを分からにゃいかんです。ね。
 どういう時だってあなた、自分の心の中に余罪がなかならば、そげんドキドキすることいらんでしょうもん。ね。そういう例えば、心の中にそういう場合でも落ち着けれる心がへだてのない心なんだ。
 これはもう二十何年前に、あの、あと、あの闇商売をしておりました時分に、久留米の警察に呼びがつきましてね。そして長い間その、まぁ、尋問を受けたことがあるです。あまり私が言うならば白状しないもんですから、もう向こうの方が痺れを切らしてですね、私をその、まぁ、イライラ戦術にかかったわけですね。イライラさせられた。だから放ばらかしなさった。だからその放からかされて、向こうに行った間にですね、私は善導寺まで、あのお参りをしてきましたですからね。警察も私をかんまわんもんですけん。ご飯食べげご飯食べに来たら、そのまま寝てしもうたです。それでもう自転車もう(?)してから、善導寺お参り。それまでは、事実私はその品物を扱うとじゃけん胸はドキドキしよる。ね。お参りをさせて頂いて、帰ってきたばってんまーだ来とらん。それから私はですね、そこのこう調べを受けるところの机の前に、座とったばってん眠気がついたけんで、そこに( ? )眠ってしもとった。それこそしばらくしたと思われます頃に、肩叩きよる。「あのさっきから私は来たばってんあんたおらじゃったの」っちいうて言う。私が善導寺行っとる間に、やっぱ来っちゃったわけですよね。けど私がおらんもんだから、またどこに行っちゃる(?)。で来たところが今度は私がグウグウ寝とるもんだからね。あの、肩を叩いて私を起こしたっちう。でその「実は私は、金光様の信者じゃがけれどもね、貴方方がね、私が知りもせんことを(?)、そげなんふうに言いなさるもんじゃから、これは神様になってお願いしようと思って、私は、お願い行ったところ」っち。「金光様はあんた、そげんわざわざ善導寺まで行かんてん、久留米にも何軒であるじゃろが」ちから言いますもん。「いやそれは私の、いわば手続きを頂いた親教会であるから」とういうなんあ説明をしたんですよね。ね。そしてからなら、その、刑事さんにですたいね私が、「考えてみて下さいって。貴方が言うような大それた、私がしなっ、の闇商売を私はしとると言うならですね、どうして警察から、警察に来てから、あなたの机前じゃ私が眠れらますか」ち私が言うた。
「そりゃそうたい」ち言わんばっかごたるなふうで、「ならまた呼び出すけんまた来て下さい」ち。もうそれっきりです。それっきり呼び出しもなんもございませんでした。もう実を言うたら家にはもう沢山(?)品物、いわば、隠匿してあったんですよ。ね。
 いうようにですね、あの例えばそれがなら、私はお取次ぎを頂いてお願いをしてから自分の心の中に平常心を頂いたんですよね。けれども、そういうような場合でもですね、そのそういうふうな心の状態にどんな場合でもドキドキもせんごとなった時が、本当はへだてのない心なんです。何でも、ある時もなか時も同じことの心なんです。だからそういう心を目指してから、お互い信心するんですから、とてもあんたどんが五年十年日参したから、同じ修行をしたからと言うて、そげなん信心がそう(?)、頂けるはずがないて。「私は安心しております、私の神、心にいつも神様がござる」とか言うけれどもです、なるほどへだてなくお守り下さってあるのであるから、へだてなくお守りを下さってあるそれをです、頂き止めれるへだてない、いわば、祈る心が頼む心が間違っとるということなんです。ね。へだてなく祈れというのは、白紙の心。へだてないという心は白紙の心。色がついてないです。ね。そこで私共は、そういう心を目指すのです。信心、ね。そこで昨日の朝の御理解の中にね、求めてやまない道ですね。
 あれは侍者の言葉に、えー、「明日に道を問えば」ですか、「夕べに死すとも」まぁ、何とかという言葉がありますよね。自分が求めてやまない道を教えて頂く、そういう道を習ったとこでも今夜死ぬかも分からない。それでも良いんだと、もう死ぬまで道というものは、極めていかなければならないものだとこういうのですね。昨日の御理解から言うと、いわゆる、首の我ということを申しましたね。道という字は首という字を書いてしんにょう、それを道というのだと。ね。
 これはどういうことかと言うとですね、信心の教えをいよいよ頂く。ね。いよいよ信心の道を分からせてもらうと、ね。どういうことの中からでも、それいうなら心の中にドキドキするようなことが起ってもです、その中からです、その中から道を体得しようとする精進です。そこからからおかげ頂こうという、それじゃないです。そこから道を分からせてもらおうと。
 昨夜の菊世会、もう遅うから私もちょっと、まぁ、参加させてもらったんですけれどね。宮本武蔵がまだ武蔵(たけぞう)といっておった時代に、あの、沢庵和尚につかまって、あの、何、何とかというお城に閉じ込められますですね。その、その時までは、いわゆる、武蔵の我武者羅な、その「お前は人間じゃない」と言われるぐらいに、ただ強いばかりじゃった。ところがその、閉じ込められたところがですね、その城の、いうなら、今の言葉でいうなら、図書館のようなところでしょうね。いわゆる、その蔵書ですね。いわゆる、しょ、書物の倉中に閉じ込められたんですね。そして、「お前がね、その暇に任せてそこにある本を読んで勉強をせろ」とういことを言われるわけです。ね。そこで本を読むことの楽しさが分かり、色々難しいことが、今まで知らなかった知識がどんどん身に付いてきたんです。そこに、あの、武蔵としての、いわば、完成していく武蔵がそこにあるというようなあれは筋だったと思うんですれどね。菊栄会の方達に昨日私話すんですよ。今こそね、合楽ではね、そういうもう教えの小屋の中にあんただん入っておるようなもんじゃ。と、ね。
 どこに誰がこういうような素晴らしい御理解を説きよるか。今頂いとかなければ、まとめてちから頂こうちいうたっちゃできることじゃなかって、今数だけ頂いとかな。今、教えの倉には、小屋の中にです、はい、入っておるのであるから、この機械に私は教えを本気で身に付けにゃいけない、とお申しましたですけれどもね。
 私達がどういうような場合でもです、私共中々白紙の心に中々なりませんけれどもです、どのような事柄、どのような問題を通しても、その問題を通して、ね、いよいよ教えが深く体験される。ね。道を求めていくことのためならね、それは、あぁ、(?)に守らなければならないような場合でもです、ね、道を求めて止まないというような心。そういう心、いわゆる、いよいよ道を求めて止まぬ、いわゆる求導心であるね。道を求める心。
そういう道を求めて止まぬという時こそがですね、私共がやや、白紙に近い時なんです。これには混ざり気がない。このおかげば頂かにゃならんからというのじゃない。ね。いうならば、ままよという心、ね。「ままよという心になって信心してやれ」と仰るそのままよという心。これがいうなら白紙、ね。そのくらいにです、ね、頼む心、いわゆる、信頼心。あなたを、あなたに、を頼りにしておりますとこういうのです。
 今日、へだてなき、「へでなくお守りあるぞ」と、神様の親の言葉、ね。だから、これは神様の方の側ね。それから、「へだてなく頼め」と。これは氏子の側。ね。二つ並べてあるこの御神訓の中に、へだてなくというのが二つ出ておる。そのへだてなくということの、いわば解釈ですね。御理解を今日も頂いたわけでございます。
 そこに、昼もなからなければ夜もない、清いところもなかなければ汚いところもない。ね。時間も空間もない、どこにおってもいつでも、そこでお取次ぎが頂けれる姿勢というかね。そういう信心を身に付けていくことのために、いよいよ頼む心をいよいよへだてない強いものにしていかなければならん。その稽古させて頂くためにです、ね、これは私、いやもっというとおかしいですけども、私でも、ね、ちょっとした事の、事に、し、(?)、いわば、その重点なら重点を置いておるのです。それまで私が悟ったようにしておったのは、それは本なもんじゃなかったということを気付かせて頂いて以来、それを感ずるのです。ね。やはり、ここまで出てこなければ自分の心が落ち着かない。ね。ですから、皆さんにおいても、私はそこんところが実意丁寧神信心というのじゃなかろうか。ね。神様はどこんでんござるけん、こちらの心どこにでも願われる。そりゃもう勿論それどころじゃない。ね。ところがそれでいきよる時にはですね、良いけれども。いよいよ何かに直面したり、また、よくよく考えるとそういうことは横着であるということを気付かせて頂いたらね、実意を欠いでおるなる、なっておりますから、やはり、お取次ぎを頂かせてもらうということが間違いのないことだと。ね。ですから、私ここでは、軽い気持ちでお取次ぎを頂かれる時ほど、私はお取次ぎを自分に重きを置きます。ね。例えて言うと、「先生、今日はこんな大変な問題でいきよります」という時には、悠々でお届を、お取次ぎを願われる。けれども、「ちょっいと今から久留米まで行きよりますけんどうぞよろしゅうお願いいたします」と言うて、もう簡単、もう行って帰るもんのごと、帰れるもんのごと思い込んとる。そこに慢心があるとですよ。久留米さへ行きよりなさるが、果たして帰って来れるかどうか分からんとですよ。実を言うたら。いつどこに事故に会うか分からんとですよと言うて、その、だから驚かずごとあるから言いませんけれどね。氏子はああいう軽い気持ちで久留米行きしよりますから、どうぞ怪我過ちの無いようにと、だから、ここに私が、「はいはい」と言うて、お取次ぎをさせて頂いたことはです、もう無事に久留米から行って帰って来れれるということなんです本当は。ね。ですから、その願うの方の側でも、ここで言うなら、願う方の側においてもですね、そこんところをとにかく「あなたのおかげを頂かなければ、お取次ぎを頂いとかなければ、心もとない」というところ、信心。ね。
そこから私は、本当のお取次ぎを頂けて、頂いて、んん、おかげを頂いていく信心。ね。いつも安心しておれれる生活が頂けれるとこう思う。ね。同時になら目指すところはです、ね、いよいよ蔵教に行ってと、ね。教えの蔵に入って、ね、いよいよ教えを深く広く、それこそ、知恵大海のようにならせて頂く願いを立てて、ね、いよいよ信心の深さに入っていかなきゃならん。そして自分の心がですね、我情もない我欲もないもう白紙、ね。そういう私は状態になれた時に、どのような場合があってもドキドキせんですむようなおかげ。そういう状態が私はお徳を受けた者の姿であると同時に、ね、もう信心させて頂いて、っ、そのいうなら、理想郷とでも申しましょうかね。それを自分で頂いておるようにですね、そこが自分にも分かっておるように、あの、錯覚しておる場合があります。いわゆる、神われと共にあり、なんかというのは、簡単な言葉ですけれども、それを簡単に、そげんいつもかつも、神様を拝まんでもお取次ぎを頂かんでも、いつでも神様が守っておって下さるのだから、こちらが神様を外すよりね、それはそれどころじゃないけれどもです、ね、私共はそれでいてやはり、厳密に言うと、外ずしておる時の方が多い。その証拠には、何かがあるともうドキドキする、するじゃないかと、ね。そこから押して考えても、一つ一段信心を進めていかなければならんということが分かります。ね。
どうぞ、へだてなく祈れれる信心。ね。頼む心にへだてなく頼めれる、祈れれる信心。神様もへだてなくお守り下さってあるのですから、そのへだてなくお守り下さってある、その神様の祈りを、私共もへだてのない心で、それを頂き止めていくというところにです、ね、いわゆる、完璧に近い信心と言うかね、お互い、やはり、完璧を目指していくのでございますから、段々それに近づいていくことができるわけでございます。どうぞ。